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00日本橋~04保土ヶ谷

[ 2021 05 23~ ]

■00[日本橋 朝之景](東京都中央区)



[ 日本橋 朝之景 ]


江戸時代の五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点となる日本橋です。
[日本橋 朝之景]に描かれている木戸があったのは日本橋の北詰なので、橋を渡っている大名行列は東海道で京都方面へ向かう行列ではなく北へ向かう大名行列です。
橋詰の広場には、魚売りや野菜売り、犬も描かれ早朝にもかかわらず賑わっている様子がうかがえます。



[ 日本橋 日本橋と首都高(2021 05 23) ]


人と荷車しか通らない江戸時代から自動車が主な交通手段となった現在では、日本橋の幅と構造は大きく変わっています。
[日本橋 朝之景]にある日本橋は幅7.9m、長さ51mの木造の橋でしたが、1911年に完成した現在の橋は、幅27.5m、長さ49.5mの石造二連のアーチ橋で、関東大震災や太平洋戦争を耐え抜き現役として都心部の交通を支えています。
江戸時代と現在では日本橋が木橋から石橋に代わったほか、周りの風景も大きく変わっています。
建物が密集している状況は昔も今も変わりありませんが、瓦屋根の建物は箱型のビルに代わり、木戸もなくなっています。
最も大きな違いは、日本橋の上空に首都高速道路が覆いかぶさっていることです。
しかも高架橋に「日本橋」と銘板が掲げられているので、首都高の橋を日本橋だと勘違いしそうです。
現在、[日本橋 朝之景]と同じ構図で描こうとすると、朝焼けの空に代わり首都高の橋桁が画面を占領してしまいます。



[ 日本橋 首都高に挟まれた街路灯(2021 05 23) ]


日本橋上空の首都高は、損傷が著しい高架橋などの更新と周辺の新しいまちづくりのため、2019年に都市計画が変更され、2040年完成を目標に約1.8kmの区間で地下化事業が進められています。
地下化事業が完了すると、広重の描いた日本橋の風景に少し戻ることになります。



[ 日本橋 変更後の都市計画道路(2023 11 09) ]



■01[品川 日之出](東京都品川区)



[ 品川 日之出 ]



[品川 日之出]は品川宿の北端から南側を望む構図らしく、左手に東京湾に浮かぶ帆掛け船、右手に品川宿を西へ向かう大名行列、右端に八ツ山がそそり立っています。
日本橋を出発して最初の宿である品川宿が描かれたのは、現在の八ツ山橋交差点付近でしょうか。



[ 品川 八ツ山交差点(2021 05 23) ]


八ツ山は武蔵野台地の突端、現在の品川プリンスホテルのあたりにありましたが、幕末に江戸防衛の台場を築造するため御殿山とともに切崩され、今ではビルが立ち並び山があった名残は交差点名や道路の愛称に使われる程度です。
帆掛け船が浮かんでいた海は沖へ2km近く埋立てられたため、旧・東海道から海を見ることはできません。
山や海は見えなくなってしまいましたが、八ツ山は現在でも、東海道線、新幹線、京浜東北線、山手線、京浜急行線、第一京浜(国道15号)が通り、交通の要衝であることに変わりはありません。



[ 品川 早朝の品川宿商店街 (2021 05 23) ]


江戸時代の品川宿は吉原に並ぶ遊里としても栄えていたそうですが、現在は昔の道幅のままで両側には少しレトロ感のあるお店が連続しています。
品川宿の旧・東海道は京浜急行が並行して西側を通っており、短い間隔で駅があることもあり駅前商店街がつながっているようにも思えます。
京浜急行はほとんどが高架になっているものの駅前広場がほとんどないため、駅へのアクセスが徒歩に限られてしまうことも、商店街の存続にとって有利に働くのかもしれません。
北品川の京浜急行の踏切から鈴ヶ森で国道15号に合流するまで、いくつもの商店街があり地方に比べれは賑わっているように見えますが、お店の後継者不足なのか採算性のためなの、ところどころでマンションに変わりつつあります。



[ 品川  電線の地中化(2021 05 23) ]


街道沿いの商店街では活性化を図るため、東海道品川宿であったことをPRし、同じデザインの街路灯に揃え、電線の地中化も進められています。
地価の高い都心部なので、道路ギリギリまで建物が立ち並び変圧器などを置くスペースが取れないので、それらの機器を街路灯の上部に載せる方法で電線の地中化が進められています。
地中化によって周りの建物が変わることはありませんが、邪魔な電柱がなくなり蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線が一掃されるので、ビルに挟まれた狭い空間からですが、江戸時代に見ることができた空を取り戻せます。



■02[川崎 六郷渡舟](川崎市川崎区)



[ 川崎 六郷渡舟 ]


多摩川を渡る六郷の渡し船を中心に据え、東京都側から川崎市方面を望んでいます。
[川崎 六郷渡舟]の構図は川を見下ろすように切り取られ、多摩川を渡る船、対岸にある川崎宿の家並み、右手奥には雪をかぶった白い富士山が描かれています。



[ 川崎  多摩川にかかる六郷橋(2021 05 23) ]


現在、東京都側の堤防から川崎方面を眺めても、河川敷の広いグラウンドは見えるものの多摩川の水面は見えません。
この地に家康が1600年に橋を架けましたが、洪水により流されその後も架橋と流失を繰り返し、1688年の洪水以後は架け替えられず船による渡河となりました。
明治になり六郷橋が架けられましたが洪水による橋の流失は度々起き、現在の橋は1979年~1997年にかけて橋の拡幅を伴いつつ架け替えられた長さは約440m、片側3車線の橋です。
江戸時代でも約200mの橋長があったそうで多摩川は昔から広い川だったようです。



[ 川崎  京浜急行大師線 (2019 01 31) ]


[川崎 六郷渡舟]に描かれている多摩川は堤防がなく、水辺から集落までほとんど高低差がありません。
六郷の渡しのあった場所は、多摩川が大きく弧を描き流向を180度近く変えるところで、右岸側(川崎市側)に流れが強く当たります。
江戸時代と違い都市に多くの人、資産、機能が集積した昨今では、ひとたび洪水になると大きな損害を生じるので、いまでは頑丈な堤防に守られています。
それでも川崎市側は、堤防に並行して走る京浜急行大師線が六郷橋の下をくぐるため多摩川の水面より低いところを通っているので、堤防があるとはいえ心配してしまいます。
東京都側の下流には、1918(T7)年からの河川改修で造られた赤レンガの堤防が今もいたるところに残っていて、改修のたびに高く、厚みを増していく堤防を見ることができます。



[ 川崎  川崎宿だった道(2021 05 23) ]


広重の絵にあった川崎宿は、戦災復興の土地区画整理により大きく姿を変え、藁葺き屋根の家はコンクリート造のマンションに置き換わり、旧・東海道だった道から富士山を望むことはできません。
川崎宿で江戸時代の東海道を偲ばせるものは、緩やかに曲がる道路の線形ぐらいです。



■03[神奈川 台之景](横浜市神奈川区)



[ 神奈川 台之景 ]


和船が浮かぶ海を広くとり、上り坂沿いの狭い土地に建つ茶屋と旅人を茶屋に引き込もうとしている客引きが画面の右1/3程のスーペースに描かれています。
歌川広重の隷書版東海道五十三次を見ると、神奈川宿の海側に家並はありますが山側には家並はなく山裾が描かれています。
現在と違い海側にだけ家並があったようです。



[ 神奈川(2021 05 29) ]


この坂道があるのは神奈川宿の京都寄りで、坂の上には江戸末期に神奈川宿の東西に造られた関門のうち、西側の関門跡地があり碑が立っています。
現在は道の両側にマンションが立ち並び、坂の途中には坂本龍馬が亡くなった後、龍馬の妻おりょうが働いていた料亭田中家が営業しています。
田中家は[神奈川 台之景]にある茶屋「さくらや」を1863年に初代が買い取って始めた料亭だそうです。



[ 神奈川 坂の途中の田中家(2021 05 29) ]


[神奈川 台之景]で大きく画面を占めていた青い海は、1839年から平沼九兵衛が始めた埋立て事業により徐々に陸地になり、現在では横浜駅西口の市街地へと大きく変化しています。
現在の地図を見ると旧・東海道から離して横浜駅を設けたように見えますが、旧・東海道は昔の海岸線沿いを通っていて、海だったところに横浜駅などができ中心部に成長したのです。
生麦事件(薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が藩士により殺傷された)跡地付近から神奈川宿にかけての旧・東海道はほぼ海沿いの道でしたが、現在では埋立てにより内陸を通る道になり、旧・東海道からは運河になった水面がちらちらと見えるだけです。



[ 神奈川 浅間神社から望む(2021 05 29) ]


旧・東海道は高いところで約20mの標高があるので、[神奈川 台之景]に描かれた茶屋の縁台からは海が見えたようですが、現在はマンションの海しか見えません。
横浜といえば港が思い浮かぶので、どこでも海が近くにあるような感じがしますが、今では埋立てとビルの林立により海から隔絶された生活を送っているようです。



■04[保土ヶ谷 新橋](横浜市保土ヶ谷区)



[ 保土ヶ谷 新町橋 ]


駕籠や荷を担ぐ旅人が新町橋を京都方面に向けて渡り、橋の先には保土ヶ谷宿の家並みが続いています。
家並みの奥には農地が広がり農作業をする人の姿も見えます。
[保土ヶ谷 新町橋]に描かれている新町橋は、帷子川(かたびらがわ)に架かる橋で帷子橋とも呼ばれていたそうです。



[ 保土ヶ谷  現在の帷子橋(2021 05 29) ]


帷子川は戦後しばらく相鉄線天王町駅の南側を流れていましたが、河川改修により駅の北側に付け替えられ、元の川は埋立てられました。
このため[保土ヶ谷 新町橋]に描かれていた位置に橋は存在せず、旧河道があった相鉄線天王町駅前公園に橋跡のモニュメントが残されています。
描かれている帷子川の護岸はお城の石垣のような石積みですが、今の帷子川はコンクリートブロックと鋼矢板で囲まれた味気ない川です。
帷子川流域は、天王町駅付近の帷子川が付け替えられた後も、急激な都市化により幾度となく水害に見舞われたため、5,320mの地下河川(高さ9m・幅11.2m)を含む7,560mの分水路が約1,100億円をかけて1997年に完成しました。



[ 保土ヶ谷  山の斜面にも住宅(2022 05 29) ]


この周辺は農地が宅地に変わり、急な山の斜面もひな壇状に造成されて家が建ち、雨は地面に浸み込まず川に流れ出す水量が増え、川の負担が増えました。
都市化が原因で川を拡げなければならないのに、都市化が原因で地下河川という高額な工事方法しか選べなかったようです。
帷子川の支川である今井川には洪水対策として、国道1号の地下に延長2000m、内径10.8m、容量17.8万㎥の地下調節池が2003年度に完成しています。
[保土ヶ谷 新町橋]にあった農業を営む人の姿はこの付近では一切見られず、背後に描かれていた丘の上にも建物が建っています。
宅地化の代償としてあちこちで高額な治水施設が必要となってしまいました。



[ 保土ヶ谷 権太坂(2021 05 29) ]


この先、旧・東海道は今井川に沿って進みますが、今井川を本町橋で渡り100mほど進むと権太坂の登りが始まります。
正月恒例の箱根駅伝は、新しく造られた国道1号の権太坂を走りますが、旧・東海道の権太坂はそれよりも急な坂道で、歩いていても息が荒くなるほどです。
なんと、坂の途中にある高校はこの坂道を部活動のランニングで使っていました。
地形図を見ると旧・東海道は尾根筋を通るルート、国道1号は谷筋を通るルートです。
国道1号のルートの方が上り下りが少ないのに、旧・東海道がわざわざ尾根筋ルートを選んでいたのは、谷筋は排水が悪く年間を通しての利用が難しかったのでしょうか。




<参考資料>